大震災後の遠藤は、応急建築であるバラックの建設に奔走した。大正12年12月24日に完成した 賛育会産院・乳児院をはじめ、銀座ホテル、日比谷世帯の会マーケット、東洋軒、陶陶亭、盛京亭、第一屋分店・山邑酒造店などのバラック建築を手掛けた。
また、「バラックに応用する新建築体系」という構造と空間についての文章を『時事新報』紙(1924年01月)の 「美しい東京の再現と建築」欄に寄稿している。後に発行された単行本『新しい東京と建築の話』(1924年07月時事新報社)には 「一文字屋根の新建築体系」というタイトルでの所載がみられる。
中でも、賛育会産院・乳児院は、隅田区本所に内務省給与の材料で建てられたバラック建築であった。賛育会理事長を務めた藤田逸男の著書『賛育会物語』(昭和28年・私家版)によれば、「賀川君が評して、宇治の平等院に似ているといつて呉れたほどのもの」で、仮建築ではあるものの「類例のない堂々たる建築」であったという。また藤田は、「素より設計料など、頼む方でも、頼まれる方でも問題にしていない。」 と述べており、社会事業に対する双方の姿勢を知ることができる。因みに「賀川君」とは 賀川豊彦(神戸生まれ1888年~1960年)のことである。
さて、山邑別邸は「ライトのスケッチ」により遠藤と南が実施設計したもので、星島の夫人雛子は、8代目山邑太左衛門の長女であることから、設計依頼の道筋は想像がつく。また、南信が常駐して山邑別邸の現場での設計監理を行なっていたことは「建築家・南 信」で述べたとおりである。
先にも述べたように、棟札によれば上棟は大正13年(1924年)2月11日であり、竣工は同年後半とされている。(『重要文化財旧山邑家住宅(淀川製鋼迎賓館)保存修理工事報告書』1990年)
推測の域は出ないものの、遠藤は、帝国ホテルの竣工後、震災の復旧・復興支援活動の時期に芦屋の現場を訪れ、工事の進行状況等を見ていたと考えられる。というのも、岡山で2つの仕事が進んでいたからである。一つは大正13年(1924年)2月9日に竣工した住宅、もう一つは同年7月に起工し、翌年3月に竣工した学校建築である。因みに、施工は山邑別邸と同じ女良工務店であった。
地元紙の調査を行なった結果、大正14年(1925年) 12月14日の『神戸新聞』に関連記事を確認することができた。犬養毅が大正14年(1925年)12月13日の朝に「芦屋奥山の山邑太左衛門氏の新邸に立ち寄った」こと、「寛いで一泊し」たのち14日に醸造所の見学をすることなどの記事が掲載されている。また、記事からは「遠藤君(建築技師)」「若宮代議士」「星島代議士」が同行していたことが分かった。以上のことから、山邑別邸の前での集合写真は、このときに撮影されたものと考えるのが妥当である。
また、南は大正14年7月には事務所を芦屋の現場から大阪に移転していたことが分かっているので、大正13年後半とされてきた山邑太左衛門別邸の竣工が、大正14年である可能性も考えられることになる。
岡山の山陽高等女学校の校長を務めた上代淑(かじろ よし)の住宅は、大正13年(1924年)2月9日に落成披露された。式典には遠藤も招待され「創作の一元」(後に『建築の日本』1924年6月に掲載)と題した講演を行っている(同校『みさを』紙1924年03月20日)。
校舎は2階建てで、片流れ屋根、外壁は桟木付の下見板張、 室内は1階の天井が「真ん中が低く下に出て」おり、2階の天井は 「屋根勾配そのままに」東から西に傾斜していて東側に高窓が設けられていた。
なお、上代邸については、大正14年の『婦人之友』5月号に「住宅小品十五種」と題して 遠藤の作品が発表された中に「上代先生の家と星島氏子供の家(岡山)」 として図面の掲載がある(以下上代邸と星島邸とする)。2階建ての上代邸と平家の星島邸は、2軒をつなぐ門を介してL字の平面形に建てられた。 上代邸は、藤沢市にある国登録有形文化財の旧近藤賢二別邸(1925年、移築1982年)に類似の間取りとデザインであった。
因みに、山陽学園に古いテーブルが3卓あることが分かり、2012年3月に確認した。 その結果、2卓が遠藤の設計であることがわかり、上代邸で使用されていたものと判明した。この2卓のテーブルは、山邑太左衛門別邸に備えられたテーブルと同様のデザインであるが、建物に合わせて簡素化・簡略化されたつくりとなっている。 因みに、「星島氏」とは実業家の星島義兵衛のことで、彼は星島二郎の兄であり戦後に 山陽学園の理事長を務めた人物である。
写真・図面・解説文 / 井上 祐一 氏