ミネソタ州ミネアポリス郊外のセント・ルイスパークに建設されたポール・オルフェルト邸(写真1・2・3)は、その図面が1959年2月に出来上がりました。ライトがサインをした最期の業績というわけです。彼はその後病床に臥せ、4月9日に他界しました。ライトは正に死の直前まで建築家としての職能を全うしたことになるのでしょう。
「ポール・オルフェルト邸」 Paul Olfelt House
昨今では、ライト財団の調査によると、彼の全設計業績は千件を超えるのだということになっていますし、ライトの浮沈の激しい生涯に徴せば、黄金時代の繁忙が想像を絶するものであったろうことに興味を覚えます。
ライトの殆どの業績は、彼の母国アメリカでのものでした。ライトの国外での業績はきわめて少ないのです。数値で示せば、計画案を含めて30数件、彼の全業績の5パーセントにも満たないのです。 国別の内訳で示せば、もっとも多いのが日本で12、あるいはそれ以上、続いてカナダ8、イラク3、イタリアとメキシコがそれぞれ2、エジプト、インド、イラン、エル・サルバドル、パナマ各1件。更にこれらの計画案の中、実現したのは、日本で6件、カナダで3件、計9件に過ぎなかったのです。ライトにとってこれは、少々不本意なことであったかも知れません。
気が付いてみれば、カナダに建設された3件の作品は、相次いで姿を消して、今やライトの母国以外に遺っている作品は、わずか4件のみとなってしまったのです。愛知県犬山市の明治村に一部が再建された帝国ホテル(写真1)、国指定の重要文化財となった兵庫県芦屋市に建つ旧山邑太左衛門邸(現・ヨドコウ迎賓館、写真2)、東京・池袋の自由学園明日館(写真3)、現在は非公開となっている東京・世田谷の旧林愛作邸(写真4)の4件…。4件ともわが国に遺していってくれたライトの作品が、すべて健在。手厚く保存されているのです。
ライトの母国以外での業績は4件。すべてわが国にある。
木造建築を伝承し、大都会の大火や地震の被害を受けて、繰り返し建て替えをしてきた、建物の維持、保存に馴れる機会に恵まれなかったわが国が、ライトの母国アメリカに旅しなくても、わが国でライトの作品に接することが出来るのは、多くの人々に知られるべきでしょう。質の高い建築は後世にも伝えられるべきだという自覚を、私達は誇ってよいように思うのです。
1972年に研究室の卒業研究の学生らと旧山邑邸の実測調査をしたときのことが想い出されます。この住宅には居住スペースの外に、収納スペースやサービススペースが多く用意されています。それらは層を重ねる形に融合し、そのことがこの敷地の起伏と建築の一体化を成功させているのを知ったのです。
ライトの建築の断面図の面白さを実感できる秀逸な作品だと、常々高く評価しています。
フランク・ロイド・ライト プロフィール
1867年 アメリカ ウィスコンシン州で生れる
1887年 シカゴでアドラー&サリヴァン建築事務所に入所
1893年 独立して事務所を開設 最初の作品「ウインズロー邸」を設計 第一期黄金時代の始まり
1905年 初来日
1910年 プレイリー・ハウス「ロビー邸」完成 暗黒時代の始まり
1911年 ウィスコンシン州に設計工房「ダリアセン」を建設
1916年 「帝国ホテル」の設計依頼を受ける
1918年 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」を設計
1921年 「自由学園」を設計
1922年 「帝国ホテル」の完成を待たず帰国
1923年 「帝国ホテル」完成
1924年 「ヨドコウ迎賓館(旧出邑家住宅)」完成
1932年 「自叙伝」を刊行
1936年 ユーソニア・ハウス「ジェイコブス第一邸」完成
1937年 「カウフマン邸(落水荘)」完成 第二期黄金時代を迎える
1938年 アリゾナ州に「ダリアセン・ウエスト」完成
1959年 最後の作品「ポール・オフェルト邸」の図面にサイン 没
写真・図面・解説文 / 谷川 正己 氏