フランク・ロイド・ライト
(Frank Lloyd Wright)
(Frank Lloyd Wright)
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)
フランク・ロイド・ライトは、アメリカが生んだ近代建築の巨匠です。生涯で800を超す設計事例のうち400は実現したといわれ、ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエと共に20世紀を代表する近代建築の三大巨匠と呼ばれています。
1867年にアメリカ・ウィスコンシン州で生まれ、シカゴ派の巨匠ルイス・サリヴァンに師事した後、1893年より独立し建築家として名を馳せました。当時は機能性と合理性を求める“モダニズム”が建築界の潮流でしたが、ライトは“周囲の自然環境と融和し、豊かな人間性を保証する建築”こそが理想であると考え、 “有機的建築(organic architecture)”を提唱しました。主に住宅建築に作品が多く、「カウフマン邸(落水荘)」「グッゲンハイム美術館」などが有名。
1867年にアメリカ・ウィスコンシン州で生まれ、シカゴ派の巨匠ルイス・サリヴァンに師事した後、1893年より独立し建築家として名を馳せました。当時は機能性と合理性を求める“モダニズム”が建築界の潮流でしたが、ライトは“周囲の自然環境と融和し、豊かな人間性を保証する建築”こそが理想であると考え、 “有機的建築(organic architecture)”を提唱しました。主に住宅建築に作品が多く、「カウフマン邸(落水荘)」「グッゲンハイム美術館」などが有名。
ライトは浮世絵のコレクターとしても知られ、日本にも度々足を運びました。日本では旧帝国ホテルの設計者としても名が知られています。ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)は、ライトが帝国ホテル建築のために来日していた1918年に設計されました。ライトの業績の多くは母国アメリカのもので、国外の業績は計画案も含めても30数件と少なく、その約1/3が日本のものです。実際に建築されたのは当館も含めて6件※、その中で現在まで建築当初の姿を留めているのは、東京・池袋の自由学園明日館とヨドコウ迎賓館のみとなりました。(※帝国ホテル別館を含む)
1867年 | アメリカ・ウィスコンシン州で生まれる | |
1887年 | 20歳 | シカゴでアドラー&サリヴァン建築事務所に入所 |
1893年 | 26歳 | 独立して事務所を開設。最初の作品「ウィンズロー邸」を設計 |
1905年 | 38歳 | 初来日 |
1910年 | 43歳 | プレイリー・スタイルの最高傑作「ロビー邸」完成。 |
1916年 | 49歳 | 「帝国ホテル」の設計依頼を受ける |
1918年 | 51歳 | 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」設計 |
1922年 | 55歳 | 「帝国ホテル」の完成を待たず帰国(翌年完成) |
1937年 | 70歳 | 「カウフマン邸(落水荘)」完成 |
1943年 | 76歳 | ニューヨークの「グッゲンハイム美術館」設計 |
1959年 | 91歳 | アリゾナ・フェニックスで逝去 |
遠藤 新(えんどう あらた)
遠藤 新はフランク・ロイド・ライトの高弟として知られ、ヨドコウ迎賓館の実施設計を行った建築家です。ライトの建築思想を忠実に受け継ぐ弟子として、ライトからも格別に信頼されていたといわれています。
1889年に福島県福田村で生まれ、1911年東京帝国大学建築学科に入学。在学中にヨドコウ迎賓館設計の紹介者となる星島二郎(山邑家の娘婿)や、当時帝国ホテル支配人だった林愛作と出会います。大学卒業後、ライトが日本人スタッフを要望した際に、林愛作が遠藤を紹介したことから二人の関係が始まりました。
1917年にライトと共に渡米、タリアセンで約1年8カ月学び、帝国ホテルが着工すると現場チーフアシスタントとして従事。1922年にライトが母国に戻ってからは設計監理を任され、遠藤を中心とした日本人スタッフでホテルを完成させました。ヨドコウ迎賓館についても、遠藤と南信によって1924年に完成しています。
1933年より満州(中国東北部)に渡り、日本と行き来して活動の輪を広げます。帰国後は文部省による戦後の新制中学校校舎の設計に対する提言を行うなど、学校建築に力を入れました。
代表作は「甲子園ホテル(現・甲子園会館)」「目白ヶ丘教会」など。
1889年に福島県福田村で生まれ、1911年東京帝国大学建築学科に入学。在学中にヨドコウ迎賓館設計の紹介者となる星島二郎(山邑家の娘婿)や、当時帝国ホテル支配人だった林愛作と出会います。大学卒業後、ライトが日本人スタッフを要望した際に、林愛作が遠藤を紹介したことから二人の関係が始まりました。
1917年にライトと共に渡米、タリアセンで約1年8カ月学び、帝国ホテルが着工すると現場チーフアシスタントとして従事。1922年にライトが母国に戻ってからは設計監理を任され、遠藤を中心とした日本人スタッフでホテルを完成させました。ヨドコウ迎賓館についても、遠藤と南信によって1924年に完成しています。
1933年より満州(中国東北部)に渡り、日本と行き来して活動の輪を広げます。帰国後は文部省による戦後の新制中学校校舎の設計に対する提言を行うなど、学校建築に力を入れました。
代表作は「甲子園ホテル(現・甲子園会館)」「目白ヶ丘教会」など。
1889年 | 福島県福田村に生まれる | |
1911年 | 21歳 | 東京帝国大学建築学科入学 |
1914年 | 24歳 | 卒業 |
1917年 | 27歳 | 1月ライトに初めて会う。同年4月にライトと共に渡米。 |
1919年 | 30歳 | 「帝国ホテル」着工。チーフアシスタントとしてホテル建設に従事 |
1922年 | 33歳 | 「自由学園」の設計をライトと共作で行う。 ライト帰国後、「帝国ホテル」「自由学園」の設計監理を任される |
1924年 | 35歳 | 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」完成 |
1930年 | 41歳 | 兵庫「甲子園ホテル」完成 |
1933年 | 44歳 | 満州(中国東北部)へ渡り、以後満州と日本を行き来する |
1949年 | 60歳 | 文部省学校建築企画評議会委員になる |
1950年 | 61歳 | 東京「目白ヶ丘教会」完成 |
1951年 | 62歳 | 逝去 |
南 信(みなみ まこと)
南 信は1892年に仙台市で生まれ、1917年に東京帝国大学建築学科を卒業後、入社した会社から派遣される形で帝国ホテルの建設に携わりました。フランク・ロイド・ライトの元で働き始め、現場を同じくする遠藤新は高校および大学の3年先輩に当たります。ライトが帰国し、帝国ホテルが完成する前年の1922年、南は遠藤と共に「遠藤南建築創作所」を開設しました。
その後、南は1923年の春に東京から兵庫県の芦屋に住所を移し、常駐してヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)の完成を目指します。1924年に竣工、1925年に発行された建築誌『新建築』には「山邑邸解説」という表題で、南による解説文が掲載されています。
ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)完成後、南は独立し自身の建築事務所を大阪に開設しました。その後は1933年頃に満州(中国東北部)に渡り、再び遠藤新と共同設計事務所を設立、設計活動に勤しみました。
代表作は「神戸婦人同情会館」「自邸・鹿姑居」など。
その後、南は1923年の春に東京から兵庫県の芦屋に住所を移し、常駐してヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)の完成を目指します。1924年に竣工、1925年に発行された建築誌『新建築』には「山邑邸解説」という表題で、南による解説文が掲載されています。
ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)完成後、南は独立し自身の建築事務所を大阪に開設しました。その後は1933年頃に満州(中国東北部)に渡り、再び遠藤新と共同設計事務所を設立、設計活動に勤しみました。
代表作は「神戸婦人同情会館」「自邸・鹿姑居」など。
1892年 | 宮城県仙台市に生まれる | |
1917年 | 25歳 | 東京帝国大学建築学科を卒業。その後「帝国ホテル」建設に従事 |
1921年 | 29歳 | 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)」建設のため芦屋に移住 |
1922年 | 30歳 | 「遠藤南建築創作所」設立 |
1924年 | 32歳 | 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)」完成。 |
1925年 | 33歳 | 「神戸婦人同情会館」完成。 |
1927年 | 35歳 | 「南建築事務所」設立 |
1932年 | 40歳 | 兵庫県武庫郡(宝塚市)に自邸竣工 |
1933年 | 41歳 | 満州(中国東北部)に渡り、遠藤新と共同設計事務所を設立 |
1943年 | 51歳 | 肺結核のため療養し、帰国 |
1951年 | 59歳 | 仙台市にて逝去 |