後編 「『山邑邸』の設計を経て、日本建築からライトが学んだこと」

“畳割り”による美しい空間。
来日以前からライトは、統一された寸法による平面計画のユニット化を試みていたが、帰国後はほぼ全ての図面に3フィート(91㎝)角、4フィート角など、それぞれの建物にふさわしい寸法のグリッド(方眼)が描かれている。これは日本建築の持つ、畳割りによる合理的で美しい空間を実際に体験したライトが、自らの手法への確信をさらに深めたためであると思われる。
ライトは同時に建築工法のユニット化にも取り組んだ。幅11インチの横板と2インチの角材を組み合わせた13インチ(33㎝)を高さ方向の1単位とし、芯材と表裏の仕上材からなる3層の板材で構成された壁(写真1)は、そのまま室内外の美しい意匠となった。
それまでのステンドグラスに替えて、窓には日本の欄間を思わせる幾何学模様をくり抜いた板材が取り付けられた。(写真2・3)それぞれの住宅ごとに違った模様のこの装飾は、デザインの美しさと経済的な施工の両立を意図したものであり、それに先駆けた自由学園 明日館みょうにちかんでも、窓ガラスを細かく分割した意匠を見ることができる。(写真4
写真1 アフレック邸 室内壁断面(ミシガン州・1940)
写真2 ポープ邸
(ヴァージニア州・1939)
写真3 ポープ邸 窓ランマ
 
写真4 自由学園明日館 ホール
(東京都西池袋・1921)

銀座の街並みが欧州建築の模倣ばかりであることを嘆いたライトだったが、母国においても、アメリカ大陸という気候風土にふさわしい新しい建築様式を提案しようとしていたのである。ライトはそれを、作家サミュエル・バトラーの著作にある理想郷としてのアメリカの呼称「ユーソニア」を引用して、「ユーソニアンハウス」と名付けた。(写真5・6
工法の簡素化による生産性の向上を目指したユーソニアンの住宅様式からは、ライトがかなり早い時期から、現代の大量生産とは違い、美しい空間のプロポーションと意匠性とを踏まえた、住宅の量産化ということを意識していたのがわかる。またこれらの工法は、簡素なゆえに施主自らが施工することも可能で、今で言うローコスト住宅の発想がすでに取り入れられていたことにも、ライトの先見性に頭が下がる思いである。

写真5 アフレック邸
 
写真6 メルヴィン・スミス邸
(ミシガン州・1946)
最後のプレーリーハウス。

ライトが説いた“有機的建築”という言葉に表されるように、建築に対する彼の考え方は生涯を通じて一貫しており、その根底に流れるものは決して変わることはなかったが、同時にその表現の手段である建築の様式については、常に新しい手法を模索していた。プレーリーの時代を踏まえて進化した、ユーソニアンという新たな設計手法を手に入れたライトは、その後一部の増改築を除いて、プレーリー様式に立ち戻ることはなかった。

バーンズドール邸(写真7(※)と山邑邸は、住宅ではない自由学園明日館も含めて、プレーリーハウスの到達点であり、有終の美を飾る建物と考えてよいのではないだろうか。ライトが次なる時代に向けた新たな建築哲学を懸命に求めていた、まさに過渡期に産み出された山邑邸。帝国ホテル設計のために滞在する中で体得した日本建築への理解が、ライトの後半生の大いなる指針となったことを考えると、山邑邸が『ヨドコウ迎賓館』として今日も活用されているということは感慨深い。

  • ※ライトが山邑邸と同時期にロスアンジェルスの丘の上に設計した住宅。ホリホックハウス(立葵の家)という愛称で呼ばれている。
写真7 バーンズドール邸 外観
(カリフォルニア州・1917)
太平洋を隔てて遠く離れたロスアンジェルスと芦屋に、兄弟のように良く似た二つの建物が現存している。遺された建物はフランク・ロイド・ライトと遠藤 新の師弟関係を物語るモニュメントのようにも思え、我々はそれを通じて、建築が個人の表現のための媒体に萎縮してしまう以前の、文化の象徴であり、社会の器たり得た、古き良き時代に想いをはせることができる。
先人たちが示した建築に対する信念のあり方を、現代を生きる一建築家として、忘れずに継承してゆきたいものだと思う。

写真・図面・解説文 / 遠藤 現 氏

この記事は2014年1月に発行した㈱淀川製鋼所社外PR誌「YODOKO NEWS」に掲載されたものです。
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