後編 応接室の意匠変更について南棟からその背景を考える

南棟の構造的な課題

 80年代半ばに初めて旧山邑家住宅を訪れた際、南棟1階の車寄せから崖に迫り出したバルコニーに身を乗り出そうとしたところ、足元の床が危険を感じるほど陥没傾斜していていることに気づいた。実は南棟のバルコニーは十数センチも沈下し、鉄筋コンクリートの基礎が折損していたが、このような著しい変状は経年変化によって生じたのではなく、大正末の建設中に崩落事故が発生していたらしいことが分かった。

 南棟の東西面のひさし上面には、写真1の矢印Aに示すように亀裂を防止するための鉄製のかすがいが数本ずつ打ち込まれていたので、念のために屋上パラペット(※1)の仕上げモルタルを除去したところ、写真2に示すように庇と同種の鎹(矢印B)による応急補強箇所が見つかった。亀裂の分布パターンは図1に示す通りであるが、これより南側の尾根筋おねすじからの迫り出し部分が、躯体くたい工事完了後に崩れて大きく斜傾。先の庇やパラペットに大きな構造亀裂が発生したため、鎹で応急的に亀裂の進展を止めた後、左官で塗り込めたが、沈下したバルコニーなどは建て起こすことなく固定化されたようだ。

  • (※1)屋上やベランダなどの端部に設けられた低いてすり壁。
写真1 南棟西側・補修跡
写真2 南棟西側・パラペット補修跡
図1 平面図・立面図

 余談になるがこのような状況下で崩落が止まったのは、旧山邑家住宅の基礎下に近世初頭に築かれたと思われる防塁の石組が残されており、そこに滑落した南棟の基礎梁が引っかかったためらしい。

 いずれにせよ船底天井の施工開始直後に崩落事故が発生したため、室内意匠の変更を余儀なくされた可能性が指摘される。一般に基礎に深刻な損傷を受けた建物を安定化させるには、荷重軽減が最重要となる。この意味では面積が大きく、重量のかさむ船底天井を平天井に、壁面を左官からオイルペイント(以下OP)塗装にすれば、仕上げ荷重に加えて亀裂補修の点からも有利である。こう考えると旧山邑家住宅特有のOP仕上げにも納得がいく。

 保存修理工事では、急傾斜の法面のりめん の安定化工事の後、南棟の基礎をアンダーピンイング(※2)で支持して建ち起こした上で、安定した基礎を構築。亀裂周辺や劣化した鉄筋コンクリート部の打ち換えなどの構造補強が実施された。

  • (※2)既設構造物の基礎を補強する工事のこと。
まとめに代えて。

 旧山邑家住宅のように急峻な崖地に迫り出した鉄筋コンクリート造の建築は、当時世界にもほとんど前例がなかったと思われるが、ライトは芦屋川左岸の景勝の地に構造的なリスクを覚悟の上で、敢えてこのような大胆な“り出し” 即ち“懸け造り”構造を考案したのではないかと想像される。しかしながら、鉄筋コンクリート造が生まれて間もない頃、地盤工学も未発達の時代にあって、あまりに斬新かつ独創的な造形に当時の構造技術が追従できなかったようだ。それ故、後の名作“落水荘”に通じる構造デザインの迫力に打たれるのである。

 旧山邑家住宅が確かな学術調査に基づいて竣工当初に修復されたことの意義は勿論大きいが、現在の建物はアクシデントによって、応急対策を施して仮に竣工したに過ぎず、実はまだ建設途上にあるとの見方もできるように思う。 可能なら現状の応急未完の状態から脱して、ライトオリジナルのデザインに復することを、弟子の遠藤 新(えんどう あらた)・南 信(みなみ まこと)は強く望んでいたのではないだろうか? 大正14年の『新建築』で南 信は次のように記している。“此の建物は始めライトのスケッチになったもので、途中不幸にしてライトが帰米した為め、止むを得ず遠藤 新氏と自分とで仕事をまとめることとした、ライト氏が今此の建物を見て如何の感があるか、恐らくは不満な点で満ちてあろうと思う。ライト氏が若し此の建物の進行を長く見まもってくれたであったらうならば、或いは今日ある形と全く変わって居たかも知れぬ。” 解釈はさまざまであろうが、筆者にはこの独創的な建築が完成の一歩手前で意匠の大幅な変更を余儀なくされた無念さを語っているように思えてならない。 旧山邑家住宅の今後に関してはさまざまな議論があろうが、個人的には2階の応接室についてだけは、現状の平天井を幻に終わった船底天井に復元し、マットなプラスター(※3)で仕上げて巨匠フランク・ロイド・ライトの造形美を蘇らせたいと思う。

  • (※3)石膏・漆喰・土などを水で練って塗り仕上げに用いる材料。
南棟バルコニー

写真・図面・解説文 / 西澤 英和 氏

この記事は2013年1月に発行した㈱淀川製鋼所社外PR誌「YODOKO NEWS」に掲載されたものです。
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