平成23年(2011年)3月11日に起きた地震と津波で被災した新地町には、遠藤の設計で武蔵野市に建てられた小塩完次邸(1932年)が移築されている。
遠藤は、相馬中学校、第二高等学校を経て大正3年(1914年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。そして、「東京停車場と感想」という東京駅についての論評を、東京帝国大学教授伊東忠太(京都の平安神宮(共同設計)、東京の築地本願寺などの設計者)の薦めで投稿し、大正4年1月の読売新聞に掲載された。東京駅の設計者は建築界の大御所、辰野金吾であった。 論評は、都市計画上の問題や平面計画の問題、国民と建築との距離の問題へと展開されている。 ここに「全一なる対象として建築を考える」というくだりがある。この「全一」(完全に統一していること:『広辞苑』)は、遠藤が生涯を通して貫いた建築哲学であった。
このことは、たとえばフランク・ロイド・ライトと遠藤新の二人の名前による「自由学園の建築」(『婦人之友』1922年6月号)という文章にも見られる。
「いま、乙女達の校内に群れて、花の木を飾るに似たるを見ては、誠に 欣びに堪えません。
生徒はいかにも、校舎に咲いた花にも見えます。木も花も本来一つ。そのように校舎も生徒もまた一つに。」
また、「住宅小品十五種」(『婦人之友』1924年5月号)のはしがきの
「部分が相済 す美しさ、それがまた全体に参ずる美しさ、そして更に全体が部分に及ぶ美しさ」
というくだりにも、彼の建築哲学の一端を見ることができる。
大正4年(1915年)に明治神宮造営局に奉職した遠藤は、伊東忠太が審査委員長を務める明治神宮宝物殿の競技設計に応募し、3等2席に入選した。このことについて遠藤は日記に次のように書いている。
「(前略)辰野さんが、遠藤さんのを何故一等にしなかったと伊東さんに申されし由 松井彌太郎殿、いひ越してあり(中略)辰野さんが、うんと賞めたそふなり(後略)」
日記からは、辰野金吾が遠藤の設計案を高く評価していたことがうかがえる。
その後、遠藤は大正6年(1917年)1月8日に初めてライトに会う。帝国ホテルの支配人であった林愛作を介して、ホテル建設のスタッフとしてホテルの建設に従事するためであった。遠藤の長女うららが自由学園在学中に、父からの話を聞き書きした作文によれば、遠藤は大学を卒業した後にライトのところに行く決心をしていたが、向こうから来てくれたのでとても喜んだという。
同年4月28日(『建築雑誌』1917年5月)に渡米し、タリアセンでホテルの図面の仕事に従事、シカゴの著名建築家であるルイス・H・サリバンやダニエル・バーナムの事務所を訪問するなどして大正7年(1918年)暮れに帰国した。(日記による)
大正8年(1919年)に着工したホテルの工事は、未完成のまま大正11年夏に帰国したライトの後を受けて、遠藤を中心とした日本人スタッフにより大正12年(1923年)8月末に竣工し、完成披露の日、9月1日に地震に見舞われた。
主屋から下る傾斜地に、2階建てで屋上のある建物を設計した。木造の陸屋根(フラットルーフ)で、1階が子どもたちのための遊戯室、2階が書斎である。ここで遠藤は初めて「書斎窓」を考案し設計した。書斎窓とは、
「正面の窓を三つに区切り、正面中央の巾広い部分の窓を机より一尺から一尺二三寸位高くし、左右の細窓を机面までにして光線を助ける、結局、外が見たければいつでも見える、然し、本をよむ時はめに入らぬといふ様になる。」(『婦人之友』大正14年1月号)
というものである。翌年には、独立して働く卒業生のための集合住居である日本女子大学「櫻楓会アパートメントハウス」(1921年)が竣工した。ここでも各個室に「書斎窓」が使用されている。
- (※)犬養 毅(1855-1932)岡山生まれ 昭和6年首相となり、翌7年5・15事件で暗殺された。
写真・図面・解説文 / 井上 祐一 氏