昭和21年11月に帰国した遠藤は、心臓病のため入退院を繰り返した。遠藤新建築教室という名称で事務所を再開したが、再び遠藤新建築創作所に改めた。
戦前に学校の校舎あるいは講堂を多数設計していた遠藤は、戦後の新制中学校の校舎の設計に対する提言をし、所員一丸となって既存の設計図の改良案を数十件作成したという。文部省の若い技官であった池田伝蔵は遠藤のもとを訪ね、指導を仰いだという。池田夫人によれば、その多くの図面は長く池田のもとにあったが、すべて廃棄され現存しない。しかしながら、遠藤の残した資料により、熊本の益城中学校や軽井沢など各地の校舎の改良案の概要を知ることができる。実際に遠藤が設計した秋田の十文字中学校、岩谷東光中学校、宮城の若柳中学校、新潟の長岡中学校などの校舎は竣工した。
たとえば岩谷東光中学校の設計では緩勾配の片流れ屋根が用いられた。その設計理由は、屋根に積もった雪を一方から吹く地域特有の風が飛ばすことで、雪下ろしをせずに済むというものであったという。「地所が建築を教へて呉れる」という、地域の特徴から割り出した設計であった。因みに、昭和28年(1953年)に宮城県教育委員会により発行された 『新しい学校建築』には、一迫中学校、若柳中学校、田尻中学校が紹介されている。
遠藤は「哲学なき教育と校舎――日本インテリへの反省(その二)」(『国民』1949年5月号)に学校建築への思いを吐露している。学校建築は「日本の将来を左右する大問題である」にもかかわらず省みられていない。病身にもかかわらず「東西に奔走し、進駐軍や議会やあらゆる機会に世間の注意を喚起させんとするのは蓋し止むに止まれぬ憂憤の結果である。その為めに卅五年前の古証文迄持ち出して今更同じことをくり返さなければならないのは私にとって決して楽しい経験ではないのだ」と。
病床の遠藤とともに満州(中国東北三省)から帰国し、香川県財田に帰省した山崎忠夫(元満州中央銀行建築科)は、満州中央銀行関連の仕事で、遠藤の右腕として働いた人物であった。再び遠藤のもとに呼ばれた山崎は、既出の『新しい学校建築』の中で次のように述懐している。
「教育建築へ死をかけた人、故遠藤新。日本の正しい教育建築に尽くすこと三十余年。 六三制以前は官僚の圧迫のもとに苦労と忍耐を重ねながらも、 少しもその主張を曲げずじりじりとその実現に努力し来つた(ママ)人である。」
そして、3つの中学校の計画を中止するようにと訴える医師や近親者に対して、
「『教育建築の為には鉛筆を持たなければ私は死ぬ。お前たちは私を殺すのか』と云って、 その忠告を少しもきかなかった。」
将来を担う子どもたちを育てる大切な環境である学校建築の重要性を訴え続け、 環境としての建築を考え創作し続けた建築家・遠藤新の最後のメッセージである。
写真・図面・解説文 / 井上 祐一 氏