No.2 山邑別邸完成後の作品

作画:中田 匠氏(日本大学工学部建築学科卒 現在、株式会社レーモンド設計事務所勤務)
『ル・コルビュジェ』、『ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエ』、そして『フランク・ロイド・ライト』。この三人は、二十世紀、世界の建築の三大巨匠といわれてきました。ル・コルビュジェとミースは同年輩ですが、ライトは彼らよりおよそ二十歳も年上、親子ほどの年齢差があります。それでも三人の配列順序はこれでよいのです。ライトは生前、常に後塵を拝する形の巨匠として評価されたのです。
「オヤ?この配列は年齢順じゃないのですか?」そうです。この配列順序は、それぞれの巨匠の建築界への影響力の大きさに従っているというわけです。
周知のように、建築の近代化はヨーロッパを規範として推移、発展を遂げてきました。近代化の目標は「機能性」「合理性」の徹底した追求、そして実現というものでした。
「ル・コルビュジェ」 Le Corbusier, 1887 - 1965 本名は、 Chareles ‘Edouard Jeanneret
「ミース」 Ludwig Mies vander Rohe, 1886 - 1969
「ライト」 Frank Lloyd Wright, 1867 - 1959
ライトは1893年のシカゴ万国博覧会が開催された年に、師と仰ぐサリヴァンの事務所を辞して独立します。サリヴァンを敬愛して止まないライトですが、師を乗り越える建築家を目指します。サリヴァンは、大火後のシカゴ・ループ(市の中心部で、高架鉄道に取り巻かれた商業地域)に、耐火建築のスカイスクレイパー(摩天楼)を建設するのに余念がありませんでした。ライトは、大都会シカゴで働く人々のために、郊外住宅を建設しようと務めました。

彼がサリヴァンの事務所を去る前の最後の仕事が、万国博の展示館交通館の現場監理であったのですが、これが日本への覚醒の転機となった可能性を否定できません。
日本館鳳凰殿が設計者をはじめ、日本の職人が現地に赴いて建設されたのです。ライトは交通館の工事監理をしながら、日本館が建設されていく経緯を、具(つぶさ)に観察する機会を得たのです。(写真1・図面)もっとも、フランスはパリで起こった「ジャポニスム」は、この頃大西洋回りでアメリカに上陸。日本ブームは日を追って隆盛していったのと重なるわけですが。
「サリヴァン」 Louis Henry Sullivan, 1856 - 1924

写真1
1893年開催のシカゴ万国博には、日本館鳳凰殿が建設され、サリヴァンの事務所で交通館の現場監督をしていたライトは、日本館の建設の一部始終を興味深く見学することが出来た。
図面
シカゴ万国博会場に建設された日本館鳳凰殿の設計図
 
 
ライトは、ヨーロッパの建築家達が指向する近代化には同調できず、むしろ、アメリカ西海岸の太平洋の彼方にある極東の国、日本に関心を示しました。 1905年の初めての海外旅行は日本でした。ライトにとって日本は、緑濃い豊かな自然に恵まれ、芸術が一般市民の間にも溢れている、素晴らしい生活環境と理解したのでしょうか。
ライトは26歳の時、独立の事務所を持ち、シカゴ周辺の郊外地から、アメリカ中西部の草原地帯に、数多くの住宅を建設、少壮住宅作家の地位を確保するのです。草原住宅(プレイリー・ハウス)写真2・3・4)は、地を這うような周囲の自然と融和する住宅となりまし た。
「プレイリー・ハウス」 Prairie house

写真2
写真3
写真4

  写真2・3・4草原住宅(プレイリー・ハウス)の傑作「ロビー邸」:シカゴ イリノイ州

四分の一世紀にも及ぶ長い暗黒時代を経て、再び蘇生したライトは、新しい住宅、ユーソニア住宅(写真5)の普及に務めます。この「ユーソニア」というのは、イギリスの小説家サミュエル・バトラー『エレホン』に登場する理想郷にヒントを得たライトの造語ですが、この住宅には、特別の様式などありません。ライトは、「合衆国に生を受けた人々は、貧富に関わりなく、豊かな住生活が保証されなければならない」として、精力的な設計活動に邁進するのです。
ライトは住宅をはじめ、あらゆる種類の建築で傑作を生み出しました。彼はこれらを一括して『有機的建築』と名付けました。機能性や合理性の追求、利便性や即効性の充足と引替えに、豊かな人間性が阻害される危惧を持ち続けたライトは、穏やかさ、安らぎ、癒しなどに配慮した建築を目指したのです。有機的建築というのは、「人間性豊かな建築」を指すのでしょう。
ライトの没後50年を機に、ライトの再評価をしたいものです。
「ユーソニア住宅」 Usonian house
「サミュエル・バトラー」 Samuel Butler, 1835 - 1902
「エレホン」 Erewhon. No where の逆読み
「有機的建築」 Organic Architecture
写真5
ユーソニア・ハウス 「ジェイコブス第一邸」マディソン ウィスコンシン州

フランク・ロイド・ライト プロフィール

1867年  アメリカ ウィスコンシン州で生れる
1887年  シカゴでアドラー&サリヴァン建築事務所に入所
1893年  独立して事務所を開設 最初の作品「ウインズロー邸」を設計 第一期黄金時代の始まり
1905年  初来日
1910年  プレイリー・ハウス「ロビー邸」完成 暗黒時代の始まり
1911年  ウィスコンシン州に設計工房「ダリアセン」を建設
1916年 「帝国ホテル」の設計依頼を受ける
1918年 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」を設計
1921年 「自由学園」を設計
1922年 「帝国ホテル」の完成を待たず帰国
1923年 「帝国ホテル」完成
1924年 「ヨドコウ迎賓館(旧出邑家住宅)」完成
1932年 「自叙伝」を刊行
1936年  ユーソニア・ハウス「ジェイコブス第一邸」完成
1937年 「カウフマン邸(落水荘)」完成 第二期黄金時代を迎える山邑別邸が完成した後、南は遠藤南建築創作所を去り、大正14年に南建築事務所を大阪の堂島ビルに開設した。この年に神戸婦人同情会館が竣工している。

神戸婦人同情会館について
神戸婦人同情会は、大正5年(1916)に、社会事業に生涯を捧げた創立者の城ノブらにより神戸市中山手4丁目で始まった。創立の目的は、当時の劣悪ともいえる社会環境から婦人と子どもを保護し、生活を支援するというものであった。 大正7年に竣工した同市宮本通2丁目の会館に次いで、第2期工事として南信の設計による神戸婦人同情会館は、大正14年(1925)に同市外西灘村原田601番地(現灘区青谷2丁目)に建てられた。請負者は三野芳太郎であった。  南は、大正14年8月1日より「設計図案を立て」、9月20日に定礎式が行われた。「昼夜兼行」の工事により、同年12月31日に神戸婦人同情会館は竣工した。
神戸婦人同情会館定礎式
神戸婦人同情会は、翌大正15年(1926)3月6日に創立満10周年を迎え、青谷本館と呼ばれた「二百余坪ライト式」の会館の献館式が行われた。因みに、翌日の神戸新聞に式典の記事が掲載されている。摩耶山麓の西郷川の西に建つこの建物は、当時の彩色写真から、緑青色の屋根、ベンガラ色の木部と淡い黄色の左官仕上げの外壁であったことが分かる。 平面は南東に開いたL字形で、海(南)側は1階に遊戯室・保育室・食堂などがあり2階は礼拝堂、山(北)側は母子室・育児室・事務室などが配されている。 20年にわたり、多くの婦人と子どもにやすらぎの場として親しまれた南信の設計による神戸婦人同情会館は、昭和20年(1945)6月6日の空襲により焼失し、惜しまれながらその役割を終えた。
神戸婦人同情会館全景
神戸婦人同情会館礼拝堂
神戸婦人同情会館西外観
神戸婦人同情会館配置図
芦屋の住宅(その1) 菅野眞湛邸
大正15年(1926)の建築雑誌『新建築』6月号に「住宅行脚記」という連載の「(7)」として、南の設計による「菅野眞湛氏の住宅」が掲載されている。記事によれば、菅野邸は「芦屋の西鉄道線路の下、大字三條」に建っていた。敷地は400坪程で、東と南に道路があり、2階からは南に海が見える。しかし、「それよりも、北の方の六甲の山々を見たい場所である」ことから、2階の東西にはバルコニーが配されている。外観は、瓦棒葺きの屋根や太柱、塔状の煙突、水平線の強調など、一見してライト風のデザインである。また、塀にみられるバックハンドトリムと呼ばれる押し縁飾りは、ライトがプレーリーハウスに用いているデザインの特徴の一つであり、南がライトから受けた影響を物語っている。 この年の冬に、南は事務所を芦屋山坂1537に移転している。
菅野邸外観
菅野邸 内観1
菅野邸 内観2
菅野邸 平面図

(全て『新建築』大正15年6月号掲載)

神戸の亀高五市邸

亀高五市邸は、神戸市葺合区熊内町に大正14年(1925)に建てられた五市の夫人で美術家の亀高文子のアトリエと地続きの斜面を切り開いて、昭和4年(1929)に南の設計により新築された。 「敷地の高低差が南北に五十尺程あります。殆どカネ勾配の南面した斜面(中略)そうした土地でした。これはいかなライト式でも面くらひます。」という急斜面を切り開き、亀高邸は建てられた。敷地北寄りの地山の出た部分に建てられたこの建物は、床の高さを約5尺(150cm程)の差で4段階としたスキップフロアを特徴としている。玄関、居間と付帯諸室、応接と内玄関、寝室と付帯諸室の順で階が高くなる。屋根は「黄褐釉エス瓦」、外壁は「クリーム色の石目モルタル壁」で、腰張り・敷石・笠木などに大谷石が使用されていた。内外部ともに、ライト風のデザインが色濃いが、屋根のエス瓦は新味のデザインへの芽吹きと見ることもできる。

亀高邸 外観
亀高邸 外観
亀高邸 内観
亀高邸 一階平面図
亀高邸 二階平面図
(全て『新建築』昭和4年4月号掲載)

芦屋の住宅(その2) 岩田三郎邸
岩田邸は、菅野邸と同じ三條の地に昭和5年(1930)に竣工した。山邑邸とは芦屋川を挟んで西に位置していた。南信にとっては、芦屋での3軒目の邸宅の仕事であった。  南に設計が依頼されたのは、大正15年7月である。岩田邸の設計案は、「郊外に建つ家」および「某氏の家」と題して建築雑誌『新建築』の昭和2年8月号と同年11月号に掲載されている。しかし、施工者となる竹中工務店と工事契約を結び、着工されたのは昭和4年7月であった。 着工前年の昭和3年に、南は再び大阪に移転し、大ビルに事務所を構えた。設計依頼から着工までの間に、南は土地と風向の関係の調査を行うなどし、『新建築』掲載の平面図とは異なる実施案により岩田邸は建てられた。
岩田三郎邸
「某氏の家」
『新建築』昭和2年11月号掲載
亀高邸 一階平面図
亀高邸 二階平面図
1階が鉄筋コンクリート、2階が木造であったこの建物の外装を概観すると、屋根は急勾配の「丸瓦葺 北陸瓦伊太利式色物」、外壁はほぼ全体がスタッコ「モルタル塗リシン」仕上げで、当時流行していたスパニッシュ系の材料が目立つ。建物中央の六角形の塔屋には「銅板」で葺かれた東洋風の屋根がある。また、玄関上のバルコニーにはスクラッチタイルが、玄関前飾柱、2階の飾り石などに「大谷石」が使用されている。つまり、スパニッシュ、東洋風、ライト風の素材が混在して使用されている。 また、屋根の三角形、片持のバルコニーや塔屋から突出した矩形、2階の半円と矩形のアールデコ風装飾など、幾何学的な立体感を強調したデザインを特徴としており、ヨーロッパのモダニズムの影響がみられる。ライト風のデザインから、南独自の作風への移行を示すものと考えられる。
岩田三郎邸平面図

(物置増築時昭和11年)

『新建築』昭和2年11月号掲載
仁川の自邸―「鹿姑居」
昭和7年に竣工した自邸は、木造で陸屋根の乾式工法で建てられた住宅であった。外壁は、平屋部分・2階部分共に下部が縦羽目板に白いペイント塗装、上部が下見板張りで、以前にはなかった新しい南の外観デザインが自邸で示された。また、室内の壁は下地板の上にふすま紙で仕上げられた。平面図によれば、寝室と書斎がそれぞれ引き違い戸を介して居間に隣接し、寝室と書斎の間も引き違い戸の開口部となって、各部屋が単独あるいは一体として使用可能となっている。また、寝室は畳敷きで、居間と書斎よりも床が1尺高くなっている。これは、遠藤の設計にみられる、座敷と椅子の座姿勢の違いによる視線の高さを近付けるための手法であり、南もこの手法を用いていたことが分かる。南は、しばらくこの自邸で暮らしたものの、昭和9年の春には満州(中国東北部)に渡った。昭和10年にはハルビンにいたが、翌11年に新京(長春)に移り、遠藤南建築創作所で遠藤とともに仕事をした。しかし、昭和18年に結核を患い、療養を続けていたが終戦を迎え、昭和21年11月に病院船で日本に引き揚げてきた。そして、昭和26年(1951)3月20日に仙台で亡くなった。 なお、遠藤新と帝国ホテルの支配人であった林愛作も同年に亡くなっている。
南信自邸『故伊東和雄小照』 昭和8年
(井上 祐一氏所蔵)
「鹿姑居(自邸)」 平面図
『住宅』昭和8年10月号掲載

写真・図面・解説文 / 井上 祐一 氏

この記事は2012年にヨドコウ迎賓館旧HPにて掲載されたものです。
1938年  アリゾナ州に「ダリアセン・ウエスト」完成
1959年  最後の作品「ポール・オフェルト邸」の図面にサイン 没

写真・図面・解説文 / 谷川 正己 氏

この記事は2009年4月に発行した㈱淀川製鋼所社外PR誌「YODOKO NEWS」に掲載されたものです。
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