ライトが逝去してもう半世紀が過ぎたというのに、わが国で数多く流布してきたエピソードが、再検討されることもなく定説化してしまっているのは、少々気懸かりなことです。
木と紙で造ってきた日本建築の場合、大火だ、地震だ、あるいは戦時下の空襲だといってその度に家財を灰にし、貴重な史料や資料を失ってきました。欧米の研究者が、常に裏付けとなる資料を添えて歴史を語る慣習に、私達は、今一つ馴染む機会が少なかったといえばよいのでしょうか。実話とエピソードは峻別しておく必要があるように思います。
彼の母国アメリカでは、ライト没後最初に取り掛かった研究が、『自叙伝』などの彼の著書の記述の信憑性の検証でした。彼我の研究の成果に大きな格差が付くだろうことは明白です。
『自叙伝』 An Autobiography
『自叙伝』の中に唯一点挿絵が掲げられています。関東大震災で「無傷で救われた天才の記念碑としての帝国ホテル」。そのことを証明する電報会社から配達された送達紙です。(資料1)正真正銘これは立派な史料なのですが、ライトにとって同書はアメリカの人々に読まれたいものの、日本人には読まれたくない部分であったと思うのです。関東大震災はわが国で起こったこと。太平洋の彼方のアメリカで、少ない情報を駆使して構成した「耐震設計神話」より、わが国にはより豊富な資料があるはずです。実情とのズレがあればと、ライトは内心の不安を払拭できずに悩んだと思います。
同じ『自叙伝』の中に、唯一度だけ「良くない日本人」が登場します。原則的に、ライトと日本人はきわめて友好的なのに、です。余り知られていないことですが、帝国ホテル設計のプロセスで、ホテル新館の設計を林愛作支配人から最初に依頼されたのは、ライトが『自叙伝』で指摘した「良くない日本人」下田菊太郎(しもだきくたろう)でした。(写真1)彼はライトより一歳年上、そして、下田とライトがシカゴで接触する機会は充分あったのです。ライトがアドラー・サリヴァン事務所員であった当時、下田はシカゴで双璧とされていたライバル事務所、バーナム・ルートの許で働いていました。 1898 年、米西戦争が勃発、次いで恐慌時代に向う気配を察知した下田は同年帰国します。
1911 年 2 月にホテル新館建設のことが報じられ、翌年 2 月 3 日付の『ジャパン・タイムズ』(資料2)には、下田設計の正面図に添えて、「竣工すれば、スエズ(運河)以東でもっとも素晴らしいホテルが実現する」と、林の解説付きで紹介されます。1912 年 7 月、明治天皇崩御を受けて、国民全てが服喪している間に事態は急変します。下田の計画案は不採用、ライトが正式の設計者へと交代劇が実行されたのです。結果的に、ライトのホテルが竣工したのは、最善の解決だったのでしょうか。
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「バーナム・ルート事務所」 Burnham&Root Office
フランク・ロイド・ライト プロフィール
1867年 アメリカ ウィスコンシン州で生れる
1887年 シカゴでアドラー&サリヴァン建築事務所に入所
1893年 独立して事務所を開設 最初の作品「ウインズロー邸」を設計 第一期黄金時代の始まり
1905年 初来日
1910年 プレイリー・ハウス「ロビー邸」完成 暗黒時代の始まり
1911年 ウィスコンシン州に設計工房「ダリアセン」を建設
1916年 「帝国ホテル」の設計依頼を受ける
1918年 「ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)」を設計
1921年 「自由学園」を設計
1922年 「帝国ホテル」の完成を待たず帰国
1923年 「帝国ホテル」完成
1924年 「ヨドコウ迎賓館(旧出邑家住宅)」完成
1932年 「自叙伝」を刊行
1936年 ユーソニア・ハウス「ジェイコブス第一邸」完成
1937年 「カウフマン邸(落水荘)」完成 第二期黄金時代を迎える
1938年 アリゾナ州に「ダリアセン・ウエスト」完成
1959年 最後の作品「ポール・オフェルト邸」の図面にサイン 没
写真・図面・解説文 / 谷川 正己 氏